2013年7月23日火曜日

クニコお疲れさん…で、次は…

妻の選挙終わりました。結果は皆さんご存知ですが「みどりの風」は惨敗でした。彼女も政治家時代に着ていたスーツとかかちっととしたジャケットとかをもう着なくてすむ一市民に戻ります。もともと縛り付けられるのが嫌いな人です、議員になる前はダボダボのルーズパンツにTシャツというラフな格好が好きな人です…とりあえず「返っておいで、お疲れさん」です。
いろいろな所で、多くの人たちの心感じる熱い声援、本当に
ありがとうございました。議員活動中の様々な再会出会いは彼女の次の活動にとって大きな財産になることと思います。これからもどうぞ宜しくお願いします。

昨夜は二人で開票速報を見ながら、結局朝6時にマスコミ取材があるまで徹夜でいろいろな話しをしました。
この間の6年で何も予定の入っていない日はどれだけあったのだろう、月に2日あれば…というくらいスッピンでいられる日はなかったと思います。
自分で飛び込んだ世界ですから、よっぽどでないかぎり弱音をはかず、話がややこしくなるほど頭の働きがシャープになり、前へコトを進める手だてを行く通りも絞り出していました。
もともとトロント大学で<発生生物学>を専攻していたので物事の発生や成り立ち、構造と変化…温度や湿度や触媒や…
によって不確定な環境/状況が変化していく在り用への視点と対応は思考回路に焼き付けられているのだと思います。
そして神戸芸工大の大学院で「教育のデザイン」を研究し博士号をとっているので、人とシステムをデザインするのは専門家です。

どちらも正しい情報を的確にインプットしないと正確な回答は得られないし、ソフトをきちんと把握してないとハードへは至らないことを充分承知している人です。
そんな研究者で教育者である彼女がたまたま「政治家」であった6年間といえます。
「この問題を解くにはソフト/ハードどんな必要十分条件が必要か?」流動的に変化する状況の中で、それに対応する条件をクリアしながらの政治家運動をしていたのだと思っています。

僕にはどんな政治家でも、やはりひとつのことを掘り下げてきたプロフェショナルな専門家的深みが必要だと感じています。視点や思い、発想のアマチュアリズムと、形にしていくプロな技の両方が求められるのだと思います。
余談ですが山本太郎さんの想いの熱さは政界という場でからまわりし、足下をすくわれ「孤立化」していきそうな気がしてしょうがないです。クールでしたたかな仲間が支えないと、いとも簡単に潰されかねない…と感じます。

さて、話はタニオカに戻しますが、昨夜の開票速報を見ていて谷岡の同志、山形の舟山やすこさんが接戦で破れた時、僕が思ったことは最後に谷岡だけが当選したらどうしょうか?ということでした。
どんな闘いでも問題を共有分担できる仲間がいて、支えあい共感できるパートナーがいなければ孤立し(分断し孤立化させるのが常の敵の手ですから…)、最後は燃え尽きるか萎えしぼんでフェイドアウトするしかないでしょう。
多くの国民の付託という重みはひとりで背負うには重すぎるし、頭がいくつもあって、手が何本もなければ多くの問題と課題解決という国会現場での多岐にわたる戦線には対応出来ないのですから…。

そんな不安を感じ亀井あきこさんも負け…という状況、それはタニオカがこの人とだったらと声をかけた実力も意志も強いよりすぐりの女性議員の仲間、この仲間とだったらやり切れるという替えがたい同志、その仲間がいない中でこれからがどんな闘いになるのかを想像し、その重さでタニオカは壊れるかもしれないと思いました。
その時、実はタニオカも同時にそれを思っていたことが後でわかりました。
その意味で彼女が比例で落選した時は「安堵」というのが本音です、それは彼女も同様であったと思います。

政治家を辞めるということは活動を止めることでは全くありません、むしろ議員という枠では出来なかったことをタニオカ自身の社会化として出来る新しい運動の始まりと考えて下さい。
おそらく落選の報を聞いた瞬間からすでにタニオカは次のことへ頭を切り替えていたと思います、その時からアイデアは彼女の頭の中を走り始めています。
福島の人たちのこと忘れる訳ありません。原発の廃炉から後始末のこと忘れる訳ありません。この国の未来のこと頭から離れる訳ありません。
議員時代には出来なかったことを、彼女「らしく」始めると思います…いずれきっと彼女は皆さんに声を掛けることと思います。その時まで皆さんもご精進を…この間、本当にありがとうございました。

旦那は再び腰を落ち着け、山の入ります…ゲリラは「山」に籠ると決まってますので…最近中山間地に入って来る若い衆がたくさんいますが、今回街でビラ配りやって「街」の人たちのあきらめて<自棄>しているような目と較べ、本当にきれいな目をしていると感じます。
自棄から<自暴>へ向かいつつある状況を感じつつ、山から回復の「みどりの風」を送りたいと思います。

*タニオカが20日
大須観音で最後の街宣をしたスピーチを一度ニコニコ動画で見て下さい。
タニオカのHPで見られますので…。




2013年7月17日水曜日

電話で話しを聞いて上げることしか出来ませんが…



6年前、妻谷岡くにこが参議院選挙に出ると決めた時、その時も安倍政権だった。教育者として愛国心教育を柱とした「教育基本法」の改訂路線が打ち出された時だ。自分の教え子たちが自由を奪われ,再び戦場へと送られる予感が彼女に政治家への道を決めさせた。


「いっしょに変えよ」というコンセプトでの初めての選挙、「私は誰かの代理人ではなく、思いを持って行動する人たちの代表として国会に行く」と…。
代表の小沢さんから「真に民主的な政党となる」「民が主の政党となる」ことを約束し、民主党から出馬し、そして愛知選挙区で当選した。
当選何回という年功序列が巾をきかせる政界という世界で「何も分っとらん1年生は黙ってろ…」という諸先輩に「いちばん直近の選挙で信任された私たちが民意だ…」と抵抗しながらも、雑巾がけと呼ばれる雑役をきっちりやり遂げた。

目の不自由な人たちの大きな教科書作り、教科書検定システム(特に沖縄問題)や検定委員の選任の問題でいくつかのハードルを外す仕事をした。
この間、民主党は政権交代の大合唱の中で野党から与党へ、
そして「高校授業料の無償化」では公立高校だけの枠を私学まで広げる仕事をした。
まさに「教育者」として議員の仕事に奔走していた任期の前半だった。
それと印象に残っているのは、沖縄の基地問題、普天間、辺野古の現状をアメリカ国民にも知ってもらいたいと自費でアメリカの人権活動家とカメラクルーを日本に呼び映像取材をしたこと…多くのアメリカ市民にも沖縄の現状が伝えられたと思う。
そして3/11の東北大震災、福島原発事故から、特に原発問題に精力的に取り組むことになる。
単身自費で渡米し、アメリカでの「プルサーマル計画中止」を決めたカーター元大統領と会い、スリーマイル事故などアメリカでの対応など多くの情報を持ち帰って来た。
民主党の原発問題PTの事務局次長として党内に限らず、他党
との調整にも動いたが、いちばんの問題は民主党そのものであり、都合の悪い話は上から押さえ党議拘束をかけ縛る…そして問題の先送り、これでは何も前へ進んでいかない。
民主主義のルールも知らない「民主党」であることにため息のたえない日々が続いていた。

未曾有の天災と人災の中で多くの被災した人たちが、生活も希望も失う中、最も政治が必要とされる状況にあって民主党はその本質でもあるバラバラな寄り合い所帯の様を露呈して行く。
「国民の生活が第一」と謳って政権交代を果たし、多くの国民に「変わるかも!!」と希望をもたせた民主党は非民主的な体質で上部で物事を決め、同じ党の仲間の意見も聞かず官僚の手の内で踊り、政権は「裸の王様」になっていった。
そんな中、谷岡は「日本版チェルノブイリ法」とも言える
<被災者支援法>を議員生命をかけて成立させようと動き出した。
そして「子供被災者支援法」を自民党も含む全党一致で成立させた。
「タケちゃん、私この法律が通せたら議員辞めてもいいと思う…」というくらい打ち込んで作った法律も、政権と官僚のサボタージュでなかなか実現のプロセスが見えてこない、が
この法律は「水俣病」「薬害エイズ」などで問題の先送りを続ける政府の側の責任として、しっかり国民の人権が守られる今までにない法律として効いてくるはずだ。
「でかしたクニコ!」である。

そしてこの支援法を成立さるや、民主党を出て思いを共有する4人の女性議員と共に「みどりの風」の会派を作ることになる。
想像してみて欲しい。「一年坊主は黙っとれ!」という政界で当選1回の議員ばかりが、それも「女は黙っとれ!」と写真を撮る時だけ前へ出し、お飾りでしかないような扱いの政界でのことを…。
想像してみて欲しい。一年坊主の新人、それも女性だけで「党」を立ち上げたことの意味と本気さを…叩かれ潰されることを覚悟で「みどりの風」は女性らしいリアリティとバランス感覚を武器に日本の政治に新しい<風>を吹き込もうとしていることを。
タニオカは言います「いつか風の上に山がのり<嵐>になって日本の暗雲を吹き飛ばしたいと…」
タケウチは毎晩山の中で彼女の思いを電話で聞いて上げることしか出来ませんが、本当に日本に必要な政治家であり、現実的なチャレンジャーであると言い切ります。
21日の選挙<谷岡くにこ>をよろしくお願いします。





2013年6月18日火曜日

僕らは誇れる文化を繋げるか…

今から25年くらいも前、ということは4半世紀前になるのか!僕はセンチメンタルファミリーという音楽プロダクションをやっていた、今年結成40周年を迎えるセンチメンタル・シティ・ロマンスのマネージメント事務所として16年間音楽に関わってきた。
そこで出会った多くの人たちが僕の大きな財産で、21歳の時から37歳まで、ある意味「青い春」の素敵な時を音楽を通した出会いの中で過ごせたことは幸せなことだった。
しかしプロダクションの社長をしていてもビジネスは嫌いだった、自分の中でビジネスは後で付いて来るものだ…という意識が強かったから…特に音楽ビジネスとは「音楽」が先にあって「ビジネス」が付いて来るわかりやすい世界だと思ってやっていたから…。
音楽ビジネス、きったそれは<マインドビジネス>という言い方がピッタリで、音楽という心の世界があってビジネスになる、それが当り前な世界だと思っていたから…。
残念ながら後半80年代も半ばを過ぎる頃から、レコード会社に代表される音楽ビジネスの在り様は、マインドは置いておいて<売れる=カネ>への執着が強すぎ、それなら音楽じゃなくて<もの>を売ればいいじゃん…と嫌気がさしてきた。
ということでメンバーが殆ど東京での仕事が増え、引っ越して行ったのを機にその世界からサヨナラした。

その頃はアジアやアフリカを中心に民族音楽ばかり聴いていた。そこにはビジネスが先にたつ、いわゆる商業音楽にはない<生活音楽>とでも言ったらいいのか、その地の気候風土から根をはやし、そこと切り離せない民族性や文化がそのまま然り…と音楽になっているだけという世界を感じた。
僕の中で音楽はそこに在るものとして無作為な人の生活と心を感じさせてくれるものだった。
そんな中で出会ったジンバブエのグループが<ジャナグル>
だった、あれは万博のあった年…愛知県のとある地方都市で
体験した彼らのステージ…活きたリズム、生きた歌と演奏、
活きたダンス…すべてが彼らの中から自ずから然りと体を通して表現されプリミティブでフィジカルな陶酔感を味わった。
あの時のドラムもギターも若くしてエイズで亡くなり、今思えば生きている間は短いことを織り込み済みのパワーであったのか?とも感じる。
「明日ジブンは生きてないかもしれない」ということがリアルな人生、世界は今日しかないと思いながら生きている全てを今現す瞬時のエネルギー…そこに作為は必要がなく、心と体のままに今を生きるアフリカの魂を感じる。
6月21日(金)彼らが次世代に残しつなぐジャナグル・ジュニアが豊田にやって来る。
時間があれば是非来て欲しい…日本に暮らす僕らは次世代に
残しつなぐ自分たちの誇りえる<文化>を持っているだろうか?

2013年6月14日金曜日

芽が出た芽が出た、僕の畑に…

 キュウリちゃん

ナスちゃん

トマトちゃん

ブロッコリーちゃん

ピーマンちゃん

モロヘイヤちゃん

ミョウガちゃん


このところ畑の草むしりが日課になって、この5年間でいちばんまめに畑の手入れをしている。一週間もほっとくと根をはりしぶとい大人の草になり、あれよあれよという間に畑は草で覆われてしまう。そうなると草むしりが大変で面倒くさくなり、かなり気

モロッコちゃん

合いを入れないと対処出来なくなる。
今は1㎝ほどのかわいい草の赤ちゃんであるが、ここで取っておくのがいちばん楽なのだ…好きではないが、なにせ田舎暮らし一年の半分は「草との戦い」で、官僚のように問題の先送りをしていたら生活が息苦しくなる。
しかし今年、こんなにまめに草をむしってるには訳がある、それは毎日畑へ行き「まだ出ないかなぁ〜まだ出ないかなぁ…」と種をまいた畑を見に行くから…。
そうすると芽は出てなくても草がどうしても目につき、畑に
行ったついでに草むしりをしてしまう、ということだ。
この2〜3日でついに「芽が出た!芽が出た!お豆さんの芽が出た!」、2年前にジャガイモや里イモをイノシシにやられて、もう根菜は作らないと決め、豆類が好きなのでインゲン豆、茶豆、モロッコの種を蒔いた。


上/インゲンちゃん 下/茶豆ちゃん

この間、10日くらいだろうか?毎日畑をなでなでしに行き、がっかりしながら草をむしっていた訳で、ついにかわいい芽が地面から姿をあらわし、頭を持ち上げ、そして小さな双葉を恥ずかしげに開いた。
「コンニチワ ワタシ オマメサンノ アカチャンデス」と
照れながら挨拶してくれる…「カワイイ〜ッ」
お父さんとしてはちゃんと育てて大きくしてあげるからね…
というような気持ちである。
さぁこの世界に出て来たからには大きく育ち、花をつけ、実を結び、君の一生を謳歌してね。そのためにお父さん、水をあげ草をむしりながら君の成長を見てるよ。
今日は僕の畑の子ども達を紹介しよう…ホウレン草だけまだ芽を出さないけど、あとはバッチリです。枯らさないように
オクラちゃん
父頑張るからね…。

2013年6月11日火曜日

「今日」は、もう「昨日」はになってしまったけど、62歳の誕生日でした。誕生日といっても還暦を過ぎてからはカウントせず…というよりカウントの意味はない世界に入ってしまったようだ。
別の言い方をすれば、これが「ボケかっ?」とでもいうのか、はたまた里山の中での暮らしの「何月、何日の何曜日」ということの意味のなさが、自ずから年というものに関心を失わせているのか…?
ただ還暦を迎えた時、リセットして日々目の前にあることを楽しくやること、そして「正しい隠居道を生きて死のう」と志したことは忘れない。
僕の中で「正しい隠居道」とは、人の負担にならない「おせっかい道」、特に次の世界を生きて行く若い衆や子供たちへのちゃちゃ入れとでもいおうか…ステキな子はもっと素敵に、今まだ気づかずステキでない人は素敵になって欲しくて
…ようはそんな若い衆に囲まれていると幸せな気分になるから…。
ということで一日一日をおせっかいに生きて行ければ…です。
誕生日を迎えさせて頂いて「アリガトウ」でした。
*写真は誕生日記念で「橋の下音楽祭」の撤去作業に参加して、タートルアイランドのヨシキ君に撮ってもらった記念写真です。

2013年5月29日水曜日

本当に久し振りにブログを書いてます、字が大きくていい。何故こんなにブログが書けなかったのか…それはfbを始め、どんどん時空を越える人間曼荼羅の世界に魅せられてしまったから…。
僕の場合還暦越えして、自分が生きてきた中で出会った人たちと、隔たった時間や空間を越えて魔法のように再会する…
「えぇ〜っ!」と出会う瞬間「自分が生きてきた時と場」を想うのです。
それは何十年という過去の出会いから昨日という過去に出会った人まで…。
なのでなので<fbの旅>まだ暫くはやめれません。


さて、今日はブログを見て下さった方たちにライブのご案内です。昨年は小原の我が家でライブをしてくれたジンバブエのジャナグルが、今回6月21日(金)に豊田市松平でライブを行います。
写真は昨年の自宅ライブの時のもの…。


彼らとは8年前に出会いました…万博で演奏の機会があり来日したおり、愛知県蒲郡市での地方巡業の時でした。
あまりに楽しく体が動いてしまうので、おもわずステージに上がり込み一緒に踊ってしまったのが出会いの始まりです。
その時の南部アフリカ系というのか、一切ソロをとらずひたすら心地良い独特のリズムを刻んでいたギターが印象的でした。
そこでマネージャーをしていた小樽出身で20年ジンバブエ/ハラレで暮らす高橋朋子さんとも出会いました。
ボブマーレーの大ファンでOLを辞めてジャマイカへ行こうと計画していた時、その前にボブマーレーが独立記念コンサートで演奏したというジンバブエへ行ってみよう…と行ったのがきっかけで永住を決めたという女性です。


ジンバブエで現地の
ミュージシャンがあまりにもひどい理不尽な扱いを受けていることに対して、ジンバブエ人のための
アートセンター計画を作ろうと決心し、今それは音楽スタジオ、ダンススタジオとして実現しました。

そんな出会いから始まった高橋さんやジャナグルとの付き合い、今回は4回目の来日コンサートです。
最初に会ったギタリストは2回目には来ず、聞いたら「彼はエイズで死んだ」とのこと、2回目に来た時の素晴らしいドラムを聞かせてくれたチャムは来なかった、聞いたら「彼はエイズで死んだ」でした。
彼らに限らずアフリカのミュージシャンだけでなく人々は「今日生きている、明日も生きているといいな」と今あることを全力で喜び唄い踊っているように感じます。

今回来るメンバーはジンバブエの天才少年といわれるティチャファラを中心に6名のミュージシャン/ダンサー達です。
高橋さんが25年かかって立ち上げた<ジャナグルアートセンター>で育った少年少女たちが、伝統楽器(ンビラ/ンゴマ)に合わせて唄い、踊ります。
ダンスのワークショップ、パーカッションのセッションもやりますので、一緒に叩きたい人はパーカッション持ち込んで下さい。
ライブ終了後、高橋朋子さんのトーク
      「アフリカの今、そして未来」をやります。


高橋さんは言いました…「アフリカの音楽は譜面で伝えるのではなく大人たちから子供たちに伝承して伝わる、なのでそれを断ち切ると消えてしまう…」と。
日本の多くの伝統芸能が高度経済成長の過程で、祭りの担い手である若者たちがふる里を離れ、祭りが出来なくなり、お囃子の笛、太鼓の伝承が多くの土地で絶たれたのは最近の出来事です。
僕は「文化の絶滅危惧種」と呼んでいますが、グローバル化というものがもたらすものは、まさに固有の民族文化の絶滅
化でもあると思っています。
お時間のある方、是非おいで下さい。






2013年5月1日水曜日

明日は「やまぶき」の花束を



今日は朝からの雨、なぜかとても淋しい気持ちになる春雨。夕方に雨はあがったものの、夜の9時過ぎ家のまわりは霧に包まれて霞んでいる。夜行性の動物たちもひっそりと籠っているような静かな夜。


*今朝、春雨で煙るの窓の外
小音量でかけてるビルエバンスのピアノも、窓からもれ出し霧の手の平に乗り森中をやさしく撫でて廻ってる気がする。
今日で4月も終わり明日から5月、一年の三分の一が早過ぎた、今年は隠居も「隠れて居ない年」にしようといろいろ地域や若者たちにおせっかいを始めた。
「オバラ体操」も始まりそうだし、さっきは「小原農村歌舞伎」のリーダーという人にも偶然出会った。
「生活=生てることを活かす/活かして生きる」でもあるから、みんなが引き出しの中に眠らせているその人の「お宝」を引っぱり出すおせっかいが竹内的隠居だと思い動いている。
このところ特に人の持つて入る「人間力」がサービスとかテクノロジーとかに任せっきりになり、どんどん喪失しているように思えてならない。
その人の「お宝」って、その人にしかない<人間力>のこと、田舎に来て良かったと思うのは自分の出来る範囲がどんどん広がっていること。



還暦を過ぎても「これが出来るようになったとか」自分の可能性が広がるのは楽しい、やむにやまれぬ状況に身をおくことと、それを受け入れることで人は展開を始めるような気もする。

*写真は去年還暦記念で作った東屋、屋根も一人で上げました。下は掘った池、今は「やまぶき」がきれいです。


僕の場合「みんなにやるって言っちゃったし…」から始め、
やる以上「らしく…ないと」と納得できるところまでやる。
そうすると何とか出来てしまう、当然出来ないことは出来る人を必死で探し出会い頼み込むことになり、出来る人の輪が
結局広がる。この繰り返しの人生だ。

今日は朝からめちゃ肩が痛いというか凝ってる、何故だろう?も答えがすぐわかった。昨日今年初めての草刈りをした
…で、草刈り機の刃が古く先も丸いのでやった、その結果肩や腰に負担がかかった。という具合に理由もわかるようになった。「刃をかえなくちゃ」である。
やってみないと分らないことだらけの生活を始めることで、いろんなことが分るようになる、いくつになっても新しい経験を積むことが可能性の扉を開けてくれる。

明日は妻の誕生日、彼女の誕生日前後は必ず池のまわりが
「やまぶき」の黄色い花が乱れ咲く。
明日はその花で花束を作って届けよう。