2013年7月17日水曜日

電話で話しを聞いて上げることしか出来ませんが…



6年前、妻谷岡くにこが参議院選挙に出ると決めた時、その時も安倍政権だった。教育者として愛国心教育を柱とした「教育基本法」の改訂路線が打ち出された時だ。自分の教え子たちが自由を奪われ,再び戦場へと送られる予感が彼女に政治家への道を決めさせた。


「いっしょに変えよ」というコンセプトでの初めての選挙、「私は誰かの代理人ではなく、思いを持って行動する人たちの代表として国会に行く」と…。
代表の小沢さんから「真に民主的な政党となる」「民が主の政党となる」ことを約束し、民主党から出馬し、そして愛知選挙区で当選した。
当選何回という年功序列が巾をきかせる政界という世界で「何も分っとらん1年生は黙ってろ…」という諸先輩に「いちばん直近の選挙で信任された私たちが民意だ…」と抵抗しながらも、雑巾がけと呼ばれる雑役をきっちりやり遂げた。

目の不自由な人たちの大きな教科書作り、教科書検定システム(特に沖縄問題)や検定委員の選任の問題でいくつかのハードルを外す仕事をした。
この間、民主党は政権交代の大合唱の中で野党から与党へ、
そして「高校授業料の無償化」では公立高校だけの枠を私学まで広げる仕事をした。
まさに「教育者」として議員の仕事に奔走していた任期の前半だった。
それと印象に残っているのは、沖縄の基地問題、普天間、辺野古の現状をアメリカ国民にも知ってもらいたいと自費でアメリカの人権活動家とカメラクルーを日本に呼び映像取材をしたこと…多くのアメリカ市民にも沖縄の現状が伝えられたと思う。
そして3/11の東北大震災、福島原発事故から、特に原発問題に精力的に取り組むことになる。
単身自費で渡米し、アメリカでの「プルサーマル計画中止」を決めたカーター元大統領と会い、スリーマイル事故などアメリカでの対応など多くの情報を持ち帰って来た。
民主党の原発問題PTの事務局次長として党内に限らず、他党
との調整にも動いたが、いちばんの問題は民主党そのものであり、都合の悪い話は上から押さえ党議拘束をかけ縛る…そして問題の先送り、これでは何も前へ進んでいかない。
民主主義のルールも知らない「民主党」であることにため息のたえない日々が続いていた。

未曾有の天災と人災の中で多くの被災した人たちが、生活も希望も失う中、最も政治が必要とされる状況にあって民主党はその本質でもあるバラバラな寄り合い所帯の様を露呈して行く。
「国民の生活が第一」と謳って政権交代を果たし、多くの国民に「変わるかも!!」と希望をもたせた民主党は非民主的な体質で上部で物事を決め、同じ党の仲間の意見も聞かず官僚の手の内で踊り、政権は「裸の王様」になっていった。
そんな中、谷岡は「日本版チェルノブイリ法」とも言える
<被災者支援法>を議員生命をかけて成立させようと動き出した。
そして「子供被災者支援法」を自民党も含む全党一致で成立させた。
「タケちゃん、私この法律が通せたら議員辞めてもいいと思う…」というくらい打ち込んで作った法律も、政権と官僚のサボタージュでなかなか実現のプロセスが見えてこない、が
この法律は「水俣病」「薬害エイズ」などで問題の先送りを続ける政府の側の責任として、しっかり国民の人権が守られる今までにない法律として効いてくるはずだ。
「でかしたクニコ!」である。

そしてこの支援法を成立さるや、民主党を出て思いを共有する4人の女性議員と共に「みどりの風」の会派を作ることになる。
想像してみて欲しい。「一年坊主は黙っとれ!」という政界で当選1回の議員ばかりが、それも「女は黙っとれ!」と写真を撮る時だけ前へ出し、お飾りでしかないような扱いの政界でのことを…。
想像してみて欲しい。一年坊主の新人、それも女性だけで「党」を立ち上げたことの意味と本気さを…叩かれ潰されることを覚悟で「みどりの風」は女性らしいリアリティとバランス感覚を武器に日本の政治に新しい<風>を吹き込もうとしていることを。
タニオカは言います「いつか風の上に山がのり<嵐>になって日本の暗雲を吹き飛ばしたいと…」
タケウチは毎晩山の中で彼女の思いを電話で聞いて上げることしか出来ませんが、本当に日本に必要な政治家であり、現実的なチャレンジャーであると言い切ります。
21日の選挙<谷岡くにこ>をよろしくお願いします。





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