2013年9月28日土曜日

先週は台風一過で僕の住む旧小原村(現豊田市小原地区)は山の土砂が至る所で道をふさぎ、村の土建屋さんはパニックだったとか…確かにユンボやダンプの数は急に増える訳ではないのでしかたない。
幸い人が亡くなったとか怪我したとかはなく、僕の家も雨漏り2ヶ所ですんだ。
そんなホッとした翌日、僕が<小原の土木スーパーマン>と呼んでいる親方から電話があり、「◯◯さんの山が抜けて人手が欲しい、竹内さん空いてないか…」とのこと、出番をもらった嬉しさに万端調整し現場に駆けつけた。
そして3日間、初体験のダンプの運ちゃん兼交通整理のガードマンとして朝から夕方まで土ぼこりをかぶりながら汗をかかせてもらった。
ダンプの運転は面白く、荷台に満タンの土砂をザァーッと空ける時は快感だった。しかしガードマンさんの仕事は僕には向いていないかな…親方によく怒られた。
というのも車のあまり来ない山道、確かに車が来た時はユンボが道を塞いでいるいるので、来た車にちょっと待ってもらいユンボを横に寄せ、車を通すという大事な仕事ではあるが、10分に一台通るかどうかの道、見張っていても車の影は見えず、突っ立っているだけの時間は退屈でしょうがない。
で、つい親方のユンボの技に見とれてしまう。親方のユンボの操縦はあの無骨な鉄の箱にキャタピラ、ゴツゴツした鉄のアームの先の鉄のバケット、柔らかさのかけらもない機械を日舞でも舞うように動かすのだ。
まるで鉄製ではない動きガサツさが微塵もない、バケットは扇子でも持っているかのように崖を土を撫でているようだし、回転、腕の上げ下げはスィングしながら自由にしなやかに踊っているようである。
中学を出て、青森県八戸から上京し土木一筋60年近く、日本中の現場を歩き、あらゆる重機に精通し、山へ入れば木を見て切る木こりさんでもある。
その昔には親方と三里塚で親方の先導するブルドーザーを挟んで機動隊と向かい合ったかもしれない間柄だというのを最近知ったが、体ひとつで生きて来た男のかっこ良さというか、いろいろな現場の昔話を聞いているだけで時間が過ぎて行く。
「土木職人」と言うのが親方の印象、土木職人さんは現場の環境、土や木、道具を見ながらいちばん適切な段取りと作業を美しく無駄なくこなす…良い親方についたと思う。
さすが3日目が終わった時はヘトヘトであったが、親方から
3万円ももらってにんまり、センチの40周年コンサートのご祝儀の一部にありがたく頂いた次第…。

2013年9月10日火曜日

一ヶ月半ぶりです。センチ40周年へ!




久し振りにブログを開きました。前のは7/23、妻の選挙が終わった時です。彼女も僕もリハビリがようやく終わろうとしています。彼女は6年間ほとんど自分の生活というのをしてなかったので、生活の場としての部屋を整理し取り戻すことと、外食ばかりの食生活から脱し、それこそ僕を胃袋で落としたという料理名人に戻ってきました。
基本的な生活のスタンスが出来て来たので…これからが自由市民の幕開け…ということになるでしょう。楽しみです。

僕はと言えばこの間、田舎で隠居のはずが選挙後すぐに組長の一年でいちばん大きな仕事といわれる「天王さん」と呼ばれる行事の仕切りを手始めに、昨年始めた「軽トラあんどんパレード」の仕切り。そしてお盆に帰郷する、小原のひとつしかない中学の卒業生を対象に「お帰りなさい…」と言うコンセプトで<おば中カフェ>という店を作り、Uターン促進の企てをしました。
8月の終わりには豊田市のお手伝いで「孫たちへのバトン」という、祖父母世代から孫世代におくるメッセージを短歌、俳句、詩、手紙という表現で募集し、曲をつけたり、役者さんに朗読してもらったりという企画を実施しました。
と言う訳で2週間に一回のイベントごとをこなしながらリハビリしてました。

その間にも自分にかしたミッションで夏休みが終わり、子ども達が学校へ行く前に周辺の通学路の草を刈る…8月後半の天気のいい日は毎日草刈りしましたが、自分が決めた範囲、「民家のない500mの山道をきれいにする」が終わったのは今日でした。

ということで10日送れましたが、8月のハードなリハビリ期間が今日をもって終了ということになりました。




*写真はセンチの赤バスとボケてますが30年前の僕

10月13日には40年前に結成し今年40周年を迎えた
<センチメンタル・シティ・ロマンス>の記念コンサートへ向けひたすら頑張ります。ブログも再開!


2013年7月23日火曜日

クニコお疲れさん…で、次は…

妻の選挙終わりました。結果は皆さんご存知ですが「みどりの風」は惨敗でした。彼女も政治家時代に着ていたスーツとかかちっととしたジャケットとかをもう着なくてすむ一市民に戻ります。もともと縛り付けられるのが嫌いな人です、議員になる前はダボダボのルーズパンツにTシャツというラフな格好が好きな人です…とりあえず「返っておいで、お疲れさん」です。
いろいろな所で、多くの人たちの心感じる熱い声援、本当に
ありがとうございました。議員活動中の様々な再会出会いは彼女の次の活動にとって大きな財産になることと思います。これからもどうぞ宜しくお願いします。

昨夜は二人で開票速報を見ながら、結局朝6時にマスコミ取材があるまで徹夜でいろいろな話しをしました。
この間の6年で何も予定の入っていない日はどれだけあったのだろう、月に2日あれば…というくらいスッピンでいられる日はなかったと思います。
自分で飛び込んだ世界ですから、よっぽどでないかぎり弱音をはかず、話がややこしくなるほど頭の働きがシャープになり、前へコトを進める手だてを行く通りも絞り出していました。
もともとトロント大学で<発生生物学>を専攻していたので物事の発生や成り立ち、構造と変化…温度や湿度や触媒や…
によって不確定な環境/状況が変化していく在り用への視点と対応は思考回路に焼き付けられているのだと思います。
そして神戸芸工大の大学院で「教育のデザイン」を研究し博士号をとっているので、人とシステムをデザインするのは専門家です。

どちらも正しい情報を的確にインプットしないと正確な回答は得られないし、ソフトをきちんと把握してないとハードへは至らないことを充分承知している人です。
そんな研究者で教育者である彼女がたまたま「政治家」であった6年間といえます。
「この問題を解くにはソフト/ハードどんな必要十分条件が必要か?」流動的に変化する状況の中で、それに対応する条件をクリアしながらの政治家運動をしていたのだと思っています。

僕にはどんな政治家でも、やはりひとつのことを掘り下げてきたプロフェショナルな専門家的深みが必要だと感じています。視点や思い、発想のアマチュアリズムと、形にしていくプロな技の両方が求められるのだと思います。
余談ですが山本太郎さんの想いの熱さは政界という場でからまわりし、足下をすくわれ「孤立化」していきそうな気がしてしょうがないです。クールでしたたかな仲間が支えないと、いとも簡単に潰されかねない…と感じます。

さて、話はタニオカに戻しますが、昨夜の開票速報を見ていて谷岡の同志、山形の舟山やすこさんが接戦で破れた時、僕が思ったことは最後に谷岡だけが当選したらどうしょうか?ということでした。
どんな闘いでも問題を共有分担できる仲間がいて、支えあい共感できるパートナーがいなければ孤立し(分断し孤立化させるのが常の敵の手ですから…)、最後は燃え尽きるか萎えしぼんでフェイドアウトするしかないでしょう。
多くの国民の付託という重みはひとりで背負うには重すぎるし、頭がいくつもあって、手が何本もなければ多くの問題と課題解決という国会現場での多岐にわたる戦線には対応出来ないのですから…。

そんな不安を感じ亀井あきこさんも負け…という状況、それはタニオカがこの人とだったらと声をかけた実力も意志も強いよりすぐりの女性議員の仲間、この仲間とだったらやり切れるという替えがたい同志、その仲間がいない中でこれからがどんな闘いになるのかを想像し、その重さでタニオカは壊れるかもしれないと思いました。
その時、実はタニオカも同時にそれを思っていたことが後でわかりました。
その意味で彼女が比例で落選した時は「安堵」というのが本音です、それは彼女も同様であったと思います。

政治家を辞めるということは活動を止めることでは全くありません、むしろ議員という枠では出来なかったことをタニオカ自身の社会化として出来る新しい運動の始まりと考えて下さい。
おそらく落選の報を聞いた瞬間からすでにタニオカは次のことへ頭を切り替えていたと思います、その時からアイデアは彼女の頭の中を走り始めています。
福島の人たちのこと忘れる訳ありません。原発の廃炉から後始末のこと忘れる訳ありません。この国の未来のこと頭から離れる訳ありません。
議員時代には出来なかったことを、彼女「らしく」始めると思います…いずれきっと彼女は皆さんに声を掛けることと思います。その時まで皆さんもご精進を…この間、本当にありがとうございました。

旦那は再び腰を落ち着け、山の入ります…ゲリラは「山」に籠ると決まってますので…最近中山間地に入って来る若い衆がたくさんいますが、今回街でビラ配りやって「街」の人たちのあきらめて<自棄>しているような目と較べ、本当にきれいな目をしていると感じます。
自棄から<自暴>へ向かいつつある状況を感じつつ、山から回復の「みどりの風」を送りたいと思います。

*タニオカが20日
大須観音で最後の街宣をしたスピーチを一度ニコニコ動画で見て下さい。
タニオカのHPで見られますので…。




2013年7月17日水曜日

電話で話しを聞いて上げることしか出来ませんが…



6年前、妻谷岡くにこが参議院選挙に出ると決めた時、その時も安倍政権だった。教育者として愛国心教育を柱とした「教育基本法」の改訂路線が打ち出された時だ。自分の教え子たちが自由を奪われ,再び戦場へと送られる予感が彼女に政治家への道を決めさせた。


「いっしょに変えよ」というコンセプトでの初めての選挙、「私は誰かの代理人ではなく、思いを持って行動する人たちの代表として国会に行く」と…。
代表の小沢さんから「真に民主的な政党となる」「民が主の政党となる」ことを約束し、民主党から出馬し、そして愛知選挙区で当選した。
当選何回という年功序列が巾をきかせる政界という世界で「何も分っとらん1年生は黙ってろ…」という諸先輩に「いちばん直近の選挙で信任された私たちが民意だ…」と抵抗しながらも、雑巾がけと呼ばれる雑役をきっちりやり遂げた。

目の不自由な人たちの大きな教科書作り、教科書検定システム(特に沖縄問題)や検定委員の選任の問題でいくつかのハードルを外す仕事をした。
この間、民主党は政権交代の大合唱の中で野党から与党へ、
そして「高校授業料の無償化」では公立高校だけの枠を私学まで広げる仕事をした。
まさに「教育者」として議員の仕事に奔走していた任期の前半だった。
それと印象に残っているのは、沖縄の基地問題、普天間、辺野古の現状をアメリカ国民にも知ってもらいたいと自費でアメリカの人権活動家とカメラクルーを日本に呼び映像取材をしたこと…多くのアメリカ市民にも沖縄の現状が伝えられたと思う。
そして3/11の東北大震災、福島原発事故から、特に原発問題に精力的に取り組むことになる。
単身自費で渡米し、アメリカでの「プルサーマル計画中止」を決めたカーター元大統領と会い、スリーマイル事故などアメリカでの対応など多くの情報を持ち帰って来た。
民主党の原発問題PTの事務局次長として党内に限らず、他党
との調整にも動いたが、いちばんの問題は民主党そのものであり、都合の悪い話は上から押さえ党議拘束をかけ縛る…そして問題の先送り、これでは何も前へ進んでいかない。
民主主義のルールも知らない「民主党」であることにため息のたえない日々が続いていた。

未曾有の天災と人災の中で多くの被災した人たちが、生活も希望も失う中、最も政治が必要とされる状況にあって民主党はその本質でもあるバラバラな寄り合い所帯の様を露呈して行く。
「国民の生活が第一」と謳って政権交代を果たし、多くの国民に「変わるかも!!」と希望をもたせた民主党は非民主的な体質で上部で物事を決め、同じ党の仲間の意見も聞かず官僚の手の内で踊り、政権は「裸の王様」になっていった。
そんな中、谷岡は「日本版チェルノブイリ法」とも言える
<被災者支援法>を議員生命をかけて成立させようと動き出した。
そして「子供被災者支援法」を自民党も含む全党一致で成立させた。
「タケちゃん、私この法律が通せたら議員辞めてもいいと思う…」というくらい打ち込んで作った法律も、政権と官僚のサボタージュでなかなか実現のプロセスが見えてこない、が
この法律は「水俣病」「薬害エイズ」などで問題の先送りを続ける政府の側の責任として、しっかり国民の人権が守られる今までにない法律として効いてくるはずだ。
「でかしたクニコ!」である。

そしてこの支援法を成立さるや、民主党を出て思いを共有する4人の女性議員と共に「みどりの風」の会派を作ることになる。
想像してみて欲しい。「一年坊主は黙っとれ!」という政界で当選1回の議員ばかりが、それも「女は黙っとれ!」と写真を撮る時だけ前へ出し、お飾りでしかないような扱いの政界でのことを…。
想像してみて欲しい。一年坊主の新人、それも女性だけで「党」を立ち上げたことの意味と本気さを…叩かれ潰されることを覚悟で「みどりの風」は女性らしいリアリティとバランス感覚を武器に日本の政治に新しい<風>を吹き込もうとしていることを。
タニオカは言います「いつか風の上に山がのり<嵐>になって日本の暗雲を吹き飛ばしたいと…」
タケウチは毎晩山の中で彼女の思いを電話で聞いて上げることしか出来ませんが、本当に日本に必要な政治家であり、現実的なチャレンジャーであると言い切ります。
21日の選挙<谷岡くにこ>をよろしくお願いします。





2013年6月18日火曜日

僕らは誇れる文化を繋げるか…

今から25年くらいも前、ということは4半世紀前になるのか!僕はセンチメンタルファミリーという音楽プロダクションをやっていた、今年結成40周年を迎えるセンチメンタル・シティ・ロマンスのマネージメント事務所として16年間音楽に関わってきた。
そこで出会った多くの人たちが僕の大きな財産で、21歳の時から37歳まで、ある意味「青い春」の素敵な時を音楽を通した出会いの中で過ごせたことは幸せなことだった。
しかしプロダクションの社長をしていてもビジネスは嫌いだった、自分の中でビジネスは後で付いて来るものだ…という意識が強かったから…特に音楽ビジネスとは「音楽」が先にあって「ビジネス」が付いて来るわかりやすい世界だと思ってやっていたから…。
音楽ビジネス、きったそれは<マインドビジネス>という言い方がピッタリで、音楽という心の世界があってビジネスになる、それが当り前な世界だと思っていたから…。
残念ながら後半80年代も半ばを過ぎる頃から、レコード会社に代表される音楽ビジネスの在り様は、マインドは置いておいて<売れる=カネ>への執着が強すぎ、それなら音楽じゃなくて<もの>を売ればいいじゃん…と嫌気がさしてきた。
ということでメンバーが殆ど東京での仕事が増え、引っ越して行ったのを機にその世界からサヨナラした。

その頃はアジアやアフリカを中心に民族音楽ばかり聴いていた。そこにはビジネスが先にたつ、いわゆる商業音楽にはない<生活音楽>とでも言ったらいいのか、その地の気候風土から根をはやし、そこと切り離せない民族性や文化がそのまま然り…と音楽になっているだけという世界を感じた。
僕の中で音楽はそこに在るものとして無作為な人の生活と心を感じさせてくれるものだった。
そんな中で出会ったジンバブエのグループが<ジャナグル>
だった、あれは万博のあった年…愛知県のとある地方都市で
体験した彼らのステージ…活きたリズム、生きた歌と演奏、
活きたダンス…すべてが彼らの中から自ずから然りと体を通して表現されプリミティブでフィジカルな陶酔感を味わった。
あの時のドラムもギターも若くしてエイズで亡くなり、今思えば生きている間は短いことを織り込み済みのパワーであったのか?とも感じる。
「明日ジブンは生きてないかもしれない」ということがリアルな人生、世界は今日しかないと思いながら生きている全てを今現す瞬時のエネルギー…そこに作為は必要がなく、心と体のままに今を生きるアフリカの魂を感じる。
6月21日(金)彼らが次世代に残しつなぐジャナグル・ジュニアが豊田にやって来る。
時間があれば是非来て欲しい…日本に暮らす僕らは次世代に
残しつなぐ自分たちの誇りえる<文化>を持っているだろうか?

2013年6月14日金曜日

芽が出た芽が出た、僕の畑に…

 キュウリちゃん

ナスちゃん

トマトちゃん

ブロッコリーちゃん

ピーマンちゃん

モロヘイヤちゃん

ミョウガちゃん


このところ畑の草むしりが日課になって、この5年間でいちばんまめに畑の手入れをしている。一週間もほっとくと根をはりしぶとい大人の草になり、あれよあれよという間に畑は草で覆われてしまう。そうなると草むしりが大変で面倒くさくなり、かなり気

モロッコちゃん

合いを入れないと対処出来なくなる。
今は1㎝ほどのかわいい草の赤ちゃんであるが、ここで取っておくのがいちばん楽なのだ…好きではないが、なにせ田舎暮らし一年の半分は「草との戦い」で、官僚のように問題の先送りをしていたら生活が息苦しくなる。
しかし今年、こんなにまめに草をむしってるには訳がある、それは毎日畑へ行き「まだ出ないかなぁ〜まだ出ないかなぁ…」と種をまいた畑を見に行くから…。
そうすると芽は出てなくても草がどうしても目につき、畑に
行ったついでに草むしりをしてしまう、ということだ。
この2〜3日でついに「芽が出た!芽が出た!お豆さんの芽が出た!」、2年前にジャガイモや里イモをイノシシにやられて、もう根菜は作らないと決め、豆類が好きなのでインゲン豆、茶豆、モロッコの種を蒔いた。


上/インゲンちゃん 下/茶豆ちゃん

この間、10日くらいだろうか?毎日畑をなでなでしに行き、がっかりしながら草をむしっていた訳で、ついにかわいい芽が地面から姿をあらわし、頭を持ち上げ、そして小さな双葉を恥ずかしげに開いた。
「コンニチワ ワタシ オマメサンノ アカチャンデス」と
照れながら挨拶してくれる…「カワイイ〜ッ」
お父さんとしてはちゃんと育てて大きくしてあげるからね…
というような気持ちである。
さぁこの世界に出て来たからには大きく育ち、花をつけ、実を結び、君の一生を謳歌してね。そのためにお父さん、水をあげ草をむしりながら君の成長を見てるよ。
今日は僕の畑の子ども達を紹介しよう…ホウレン草だけまだ芽を出さないけど、あとはバッチリです。枯らさないように
オクラちゃん
父頑張るからね…。

2013年6月11日火曜日

「今日」は、もう「昨日」はになってしまったけど、62歳の誕生日でした。誕生日といっても還暦を過ぎてからはカウントせず…というよりカウントの意味はない世界に入ってしまったようだ。
別の言い方をすれば、これが「ボケかっ?」とでもいうのか、はたまた里山の中での暮らしの「何月、何日の何曜日」ということの意味のなさが、自ずから年というものに関心を失わせているのか…?
ただ還暦を迎えた時、リセットして日々目の前にあることを楽しくやること、そして「正しい隠居道を生きて死のう」と志したことは忘れない。
僕の中で「正しい隠居道」とは、人の負担にならない「おせっかい道」、特に次の世界を生きて行く若い衆や子供たちへのちゃちゃ入れとでもいおうか…ステキな子はもっと素敵に、今まだ気づかずステキでない人は素敵になって欲しくて
…ようはそんな若い衆に囲まれていると幸せな気分になるから…。
ということで一日一日をおせっかいに生きて行ければ…です。
誕生日を迎えさせて頂いて「アリガトウ」でした。
*写真は誕生日記念で「橋の下音楽祭」の撤去作業に参加して、タートルアイランドのヨシキ君に撮ってもらった記念写真です。

2013年5月29日水曜日

本当に久し振りにブログを書いてます、字が大きくていい。何故こんなにブログが書けなかったのか…それはfbを始め、どんどん時空を越える人間曼荼羅の世界に魅せられてしまったから…。
僕の場合還暦越えして、自分が生きてきた中で出会った人たちと、隔たった時間や空間を越えて魔法のように再会する…
「えぇ〜っ!」と出会う瞬間「自分が生きてきた時と場」を想うのです。
それは何十年という過去の出会いから昨日という過去に出会った人まで…。
なのでなので<fbの旅>まだ暫くはやめれません。


さて、今日はブログを見て下さった方たちにライブのご案内です。昨年は小原の我が家でライブをしてくれたジンバブエのジャナグルが、今回6月21日(金)に豊田市松平でライブを行います。
写真は昨年の自宅ライブの時のもの…。


彼らとは8年前に出会いました…万博で演奏の機会があり来日したおり、愛知県蒲郡市での地方巡業の時でした。
あまりに楽しく体が動いてしまうので、おもわずステージに上がり込み一緒に踊ってしまったのが出会いの始まりです。
その時の南部アフリカ系というのか、一切ソロをとらずひたすら心地良い独特のリズムを刻んでいたギターが印象的でした。
そこでマネージャーをしていた小樽出身で20年ジンバブエ/ハラレで暮らす高橋朋子さんとも出会いました。
ボブマーレーの大ファンでOLを辞めてジャマイカへ行こうと計画していた時、その前にボブマーレーが独立記念コンサートで演奏したというジンバブエへ行ってみよう…と行ったのがきっかけで永住を決めたという女性です。


ジンバブエで現地の
ミュージシャンがあまりにもひどい理不尽な扱いを受けていることに対して、ジンバブエ人のための
アートセンター計画を作ろうと決心し、今それは音楽スタジオ、ダンススタジオとして実現しました。

そんな出会いから始まった高橋さんやジャナグルとの付き合い、今回は4回目の来日コンサートです。
最初に会ったギタリストは2回目には来ず、聞いたら「彼はエイズで死んだ」とのこと、2回目に来た時の素晴らしいドラムを聞かせてくれたチャムは来なかった、聞いたら「彼はエイズで死んだ」でした。
彼らに限らずアフリカのミュージシャンだけでなく人々は「今日生きている、明日も生きているといいな」と今あることを全力で喜び唄い踊っているように感じます。

今回来るメンバーはジンバブエの天才少年といわれるティチャファラを中心に6名のミュージシャン/ダンサー達です。
高橋さんが25年かかって立ち上げた<ジャナグルアートセンター>で育った少年少女たちが、伝統楽器(ンビラ/ンゴマ)に合わせて唄い、踊ります。
ダンスのワークショップ、パーカッションのセッションもやりますので、一緒に叩きたい人はパーカッション持ち込んで下さい。
ライブ終了後、高橋朋子さんのトーク
      「アフリカの今、そして未来」をやります。


高橋さんは言いました…「アフリカの音楽は譜面で伝えるのではなく大人たちから子供たちに伝承して伝わる、なのでそれを断ち切ると消えてしまう…」と。
日本の多くの伝統芸能が高度経済成長の過程で、祭りの担い手である若者たちがふる里を離れ、祭りが出来なくなり、お囃子の笛、太鼓の伝承が多くの土地で絶たれたのは最近の出来事です。
僕は「文化の絶滅危惧種」と呼んでいますが、グローバル化というものがもたらすものは、まさに固有の民族文化の絶滅
化でもあると思っています。
お時間のある方、是非おいで下さい。






2013年5月1日水曜日

明日は「やまぶき」の花束を



今日は朝からの雨、なぜかとても淋しい気持ちになる春雨。夕方に雨はあがったものの、夜の9時過ぎ家のまわりは霧に包まれて霞んでいる。夜行性の動物たちもひっそりと籠っているような静かな夜。


*今朝、春雨で煙るの窓の外
小音量でかけてるビルエバンスのピアノも、窓からもれ出し霧の手の平に乗り森中をやさしく撫でて廻ってる気がする。
今日で4月も終わり明日から5月、一年の三分の一が早過ぎた、今年は隠居も「隠れて居ない年」にしようといろいろ地域や若者たちにおせっかいを始めた。
「オバラ体操」も始まりそうだし、さっきは「小原農村歌舞伎」のリーダーという人にも偶然出会った。
「生活=生てることを活かす/活かして生きる」でもあるから、みんなが引き出しの中に眠らせているその人の「お宝」を引っぱり出すおせっかいが竹内的隠居だと思い動いている。
このところ特に人の持つて入る「人間力」がサービスとかテクノロジーとかに任せっきりになり、どんどん喪失しているように思えてならない。
その人の「お宝」って、その人にしかない<人間力>のこと、田舎に来て良かったと思うのは自分の出来る範囲がどんどん広がっていること。



還暦を過ぎても「これが出来るようになったとか」自分の可能性が広がるのは楽しい、やむにやまれぬ状況に身をおくことと、それを受け入れることで人は展開を始めるような気もする。

*写真は去年還暦記念で作った東屋、屋根も一人で上げました。下は掘った池、今は「やまぶき」がきれいです。


僕の場合「みんなにやるって言っちゃったし…」から始め、
やる以上「らしく…ないと」と納得できるところまでやる。
そうすると何とか出来てしまう、当然出来ないことは出来る人を必死で探し出会い頼み込むことになり、出来る人の輪が
結局広がる。この繰り返しの人生だ。

今日は朝からめちゃ肩が痛いというか凝ってる、何故だろう?も答えがすぐわかった。昨日今年初めての草刈りをした
…で、草刈り機の刃が古く先も丸いのでやった、その結果肩や腰に負担がかかった。という具合に理由もわかるようになった。「刃をかえなくちゃ」である。
やってみないと分らないことだらけの生活を始めることで、いろんなことが分るようになる、いくつになっても新しい経験を積むことが可能性の扉を開けてくれる。

明日は妻の誕生日、彼女の誕生日前後は必ず池のまわりが
「やまぶき」の黄色い花が乱れ咲く。
明日はその花で花束を作って届けよう。

2013年4月22日月曜日

この半月は…。

久し振りのブログ、この間どんな半月を過ごしたか?振り返ってみると、それは毎日いろいろあり過ぎて…という
感じがするが、結局誰の日々もいろいろあるんだろうな…
ということを思う。


写真は今年、センチメンタル・シティ・ロマンスの結成40周年記念のフリーコンサートの会場となる森林公園の野外ステージへ下見にも行ったし…10月にやるよ!


そのことは<フェィスブック>を始めてあらためて気づいた。きっかけは何人かの人から「タケさんfbは?」と立て続けに聞かれ、彼らとコミュニケーションするにはfbが都合が
いいんだとやることにした。ハンパない機械音痴の僕は1時間かけて登録完了「ふ〜っ」。
始めて3日くらいの間に40年も前の知り合いをはじめ、
「あいつどうしてるだろう…」と思っていた友人とどんどん
つながっていく「すげ〜ぇ!」と驚きの日々が続く。


写真は40年近く前の友人が訪ねて来たので鮎を焼いて食べた、それぞれ変わらず自分の人生をちゃんと歩いてる。


この世そのものが時間や空間を越えて「人の曼荼羅」なんだ
と、みんなそれぞれの日々を「ヘェ〜ッ」「そうだそうだ」などとウオッチングしている。
確かにfbで時間が過ぎることも多くなったが、そこは田舎の
隠居さん<時間持ち>なので…。

さて、この間の天気は誰もがどうなってるの?と暑い日寒い日のギャップで調子が狂うって感じの日々を過ごしてたと
思うけど、4月になり畑を起こし、堆肥を播き、畝を作り
準備万端、苗を植えるタイミングを待ちながら今日まで…。
霜は降りるは、風は冷たいわで毎日今日は、明日は、と
「今日はやめとこう」の繰り返しで日が過ぎた。
でも、ついに今日苗を植えた。


といっても猫の額ほどの狭い畑、それでも夏の野菜は一人
暮らしには多すぎるほど穫れるので、少量多品種でなおかつ
イノシシに食べられないものという野菜を植えた。
トマト/キュウリ/ブロッコリー/ピーマン/オクラ/
アスパラ/モロヘイヤ/つる紫/などなど。
この時期、近所のばあちゃんの畑は苗植えてビニールで囲う
ということをやっている、霜や寒さ対策とのこと、僕もそれを真似ることにした。
ただ、そこは街から来た人なので…ばあちゃん達のビニール囲いは「鶏糞」「馬糞」などの肥料の袋だが、僕はきれいな
色やデザインのビニール袋をかけることにした。
とりあえず今日は畑仕事で一日が終わった、下の畑はもう少し待って豆類を蒔くことにしよう…。

そうそう…俳句も作ったっけ…

     ひらり舞う 花散る野辺の 紋白蝶

     産の芽に  散りいそぐのか 山桜






2013年4月2日火曜日

<オバラ体操>レコーディング終了


小原に住んでもうすぐ5年目を迎える、そして字の
組長にもなった。
ここ1週間は畑の草取りと土を起こしをして、苗
を植える準備も出来た…イノシシが食べないもの
ということは決めてあるが…さぁ何を植えようか?
4月11日のライブの準備もあるが、今日は小原の
子供たちと午前中から清須市のスタジオ<News90>
で「オバラ体操」のレコーディングをした。
小原中の一年生、よしき君、由佳子ちゃん、桃子ちゃん
に本城小4年のさくらちゃんの4人が小原の子供たちや
じいちゃん、ばあちゃんを元気にする歌をしっかり
歌ってくれた。

  

保育園〜小学校〜中学と12年間「オバラ体操」を
したら、きっと頭と体の片隅に小原の里のことを楽しく
思い出せるだろう。
そして街に出て悩んだり疲れたりした時に小原を想い
浮かべ「小原に帰ろう!」と思う子が少しでも増える
といい、タケウチ流の<Uターン作戦>の一環だ。
おそらく新しい里の文化は、Uターンで帰って来た若い衆
とIターンでやって来た若い衆が出会い、共に新しい
コミュニティを結ぶことから始まるだろう。
まさに<U&I>YOU&Iということになる。
田舎の自然と人間力が活力をみなぎらせ、そのチャームを
発信する時、日本の可能性が芽を出すと感じる。
「♪なんにもないけどなんでもあるよ〜♪」
子供たち出て行けよ!そして帰って来いよ!

  おばら体操
なんにもないけど なんでもあるよ
山から朝日が   おはようさん
今日もいちにち  はじめるまえに おばら体操だ
いち にい さん しい オバラッコ
ヤィヤァー ヤィヤァー ヤィヤァー ヤィヤァー オバラのバァ

なぜかしらないが やることだらけ
気がつきゃ畑の  草ぼうぼう
汗かき草刈り  落ち葉かき おばら体操だ
いち にい さん しい オバラッコ
ヤィヤァー ヤィヤァー ヤィヤァー ヤィヤァー オバラのジィ

 春の風はやわらかく 夏の風はすずやかで
 秋の風は心地ち良く 冬の風はしゃんとする
 小原のいちねん 七色の花 

またでたまたでた イノシシタヌキ
まけるなへこむな 知恵くらべ
笑って元気に 勝負しよ おばら体操だ
いち にい さん しい オバラッコ
ヤィヤァー ヤィヤァー ヤィヤァー ヤィヤァー オバラッコ

今日もようやった 畑に田んぼ
夕陽が空そめ  おつかれさん
みどりの空気を いっぱいすって おばら体操だ
いち にい さん しい オバラッコ
ヤィヤァー ヤィヤァー ヤィヤァー ヤィヤァー オバラノジン





 

2013年3月21日木曜日

4月11日にライブやります。

こんど4月11日(木)に我が家で中嶋恵樹さんのライブをやることになった…。
最近にわかに春本番という暖かさのせいか、黄砂+PM2.5混じりの春霞みのせいか
冬の寒さに知らず気ずかず防御態勢で凝り固まった心と体が、春の陽溜まりの中で
溶け出しているのを感じる。
歌が出来た…

  とけていく はるのひざしに とけていく
            ままよこのまま やまのつちくれ

本当にアイスクリームになったような融け方でどんどん力が抜けていくのを感じた。
ふとその気分は…西行が出家を決めた時に詠んだという…

  空になる 心は春の 霞にて 世にあらじとも おもいたつかな

と同じような気分に春の陽はさせてくれるようだ…。 

カメラの修理ができ返ってきたので、次回はホント家のまわりにチャーミングな春の花
たちがいっぱいなので<我が家の春>を紹介したいと思う…この頃…。

そんな時、マクロビレッジのキヨミさんから「タケウチさんの所でライブやりませんか?」
と電話をもらった。
何か始めたい気分だったので「あなたがオススメだったらやるよ…」と話しが決まった。

その人は<Keiju>さんというミュージシャンで現在徳島の山の中で暮らしているとのこと、
すぐ彼のHPでどんな音楽、どんな活動をしているのかを確認した。
普通はその人の歌なり曲なりを聴いてから「やる!」とか「やれない!」を決めるのだろうが、
こうゆう出会い方…僕がその人の感性を認めている誰かが「タケウチさんやらない…」と声を
かけてくれる場合は、その誰かは僕に合うに違いないと思って声えをかけてくれているはず…。
そうやって知らない人といきなり本番で出会う博打的スリリングさはたまらない。

という訳で中嶋恵樹<Keiju>さんのライブを我が家(ライブ、イベントをやる時は「竹之家」)
で開催することとなった。


  <竹之家ライブ>

  4月11日(木) 午後7時〜
  小原<竹之家> 豊田市乙ケ林町高保多18−1 タケウチマサミ
             090−2572−0877
             takehome@kito-net.com
     前売り1500円(当日2000円)小中学生無料
           *予約にて当日前売り扱い
 どうぞ春の小原の里でのライブで冬の疲れを洗い流して下さいな…お待ちしています。
  
彼のプロフィールは…
     http://office-knit.com/keiju/profile/index.html

KEIJU NAKAJIMAKeiju
PDFファイル PDF版プロフィールのダウンロード
name: Keiju (中嶋恵樹)
residence: 横浜
横浜生まれ新宿育ち、1987年に世界を目指し日本を脱出。が、BKK経由でヨーロッパへ行く途中タイの音楽業界にて活動を開始し、現在もタイのアーティストとプロジェクトを進めている。
メインはギターであるが、バリ島の竹笛「スーリン」、インドの民族音楽楽器「シタール」、ギリシャの伝統的な弦楽器「ブズーキ」をはじめ琴やシンセサイザーなども奏でるマルチプレイヤー、様々な旅先で出会った楽器を駆使し独特のサウンドを展開。
Rock、Jazz、Classic、民族音楽などあらゆるジャンルをMIXしたスタイルは心に響く新しさを感じ取れる。2001年まではBKKに拠点を置き、アジアのミュージックシーンにて作編曲、サウンドプロデュースなどをメインに17年以上活動。
その間、 ヨーロッパでの前川SAMとのデュオツアーも行い、ドイツの放送局SWRが開催する民族音楽とクラシックを融合したコンサートにも参加。
タイを中心とした参加タイトル数は350タイトルを超え、タイポップスのミリオンセラーアーティストにも楽曲を提供している。最近のタイでの活動として、タイの国民的シンガー「Danuporn Kawekarn (Jae)」との活動を中心にアルバムレコーディングを行っている。
国内の活動としては、伝説のブルースバンドBreak Downリーダーの「服田洋一郎」ツアー参加、R&Bシンガー「上田正樹」とのライヴをはじめ、沖縄民謡の大御所「照屋政雄」との離島ツアー、関西で人気のレゲェシンガー「Kaja」、歌姫「桑名Halko」やサックスプレイヤー「Chica」等。
Bird」のJ-wave Live 生演奏や、P-model「平沢進」のアルバム参加などギタープレイヤーとして様々なアーティストをサポート。
2001年徳島県神山町で開催される世界中のアーティストを募ったイベント「神山アーティスト in レジデンス」に初の音楽家としても招待され、ソロアルバム「awa+aqua」をリリース。神山にスタジオも設け、今後の日本の活動も活発になりそう。
自身がリーダーとして民族音楽楽器を使った即興演奏バンド「Eurasian Rung」でも定期的なツアーを行い、全国各地でライヴを展開中。


2013年3月12日火曜日

ふたつの話し+1


5年前、オバマの選挙に湧くアメリカの空気を感じたくて
妻とテキサス/ヒューストンへ行った、その際プレスだと近くまで行けると聞き知り合いの地方新聞のカメラマンという
IDカードを作ってもらった。
カメラマンというからには一応ちゃんとそれらしく見えるカメラを持ってなくちゃ…ということでキャノンのデジカメを
購入し、ブログに載せる写真もそれで撮っていたのだが…
ついに作動しなくなり写真を撮ることが出来なくなった。
修理に10日くらいかかるとのこと、それまでは撮り溜めた
写真で何とかやりくりしたいと思う、何せブログってのは
写真がポイントの一つなので…。
まずは本題に入る前にプレスのカメラマンとしてのデビュー写真を…。

ということで本題に…この前の日曜にひとついいことが…
今朝ひとつ面白いことがあった…。

日曜日に教え子の結婚式に招待された、女子大なので嫁?に
行く?そんな訳ない。
直接教えたことはないが大学時代にいちばんお世話になったので「タケさんに来て欲しい」とのこと、彼女は性同一障害
で<男>なのだから…。
就職してから治療もし、晴れて男として名前も変わり、今回の結婚にこぎつけた。
とても妙な気持ちではあるが奴はついにやった!同じ職場で
であった彼女と恋愛し、先方の親にも認めてもらい3月10
日の式を迎えた。
どれだけの高いハードルを越えたか想像も出来ないが、奴は
やった!
式に来ていた親族も職場の同僚も、そして双方の友人たちも
そのことをしっかり感じ、二人のチャレンジャーに惜しみないエールと幸せを祈っていた。
式の最後、新郎である奴のスピーチ、言葉では語れない27年あまりの想いとこの間の踏ん張り、それが新しい扉を開いた瞬間だ。
僕は万歳が大嫌いだが、心から自然に「万歳!万歳!万歳!」と声がわき上がってきた。
テーブルの隣り席の同級生、奴も女子大卒の<男>であるが、式が終わる時「勇気がもらえた!」と感無量の表情、
彼は好きな人との結婚を向こうの親から許しがもらえない…
と言っていた。
同じ障害の友人が<開けた扉>の意味は大きい…「ようやった!アコ」である。

もうひとつ…今朝の出来事…ハナとキノコとは同じベッドで
寝ているのだが、明け方に超ハードにドアから飛び出して行った(ドアには30㎝四方の犬用の扉が作ってある)。
家の中なのか外なのかで「キッキッ、キッキッ」と鳥なのか
動物なのか判断できない聞き覚えのない鳴き声がする。
2匹がいる台所へ行くと、「なんと!」…ねずみ取りの
<ネズミ取りホイホイ>に掛っていたのはなんと「イタチ」であった。
調べるとメスは20〜25㎝で小型であるとのこと、まぎれもなくメスのイタチである。
ホイホイで身動きとれずもがいている、近くの沢ではたまに見かけたが家の台所まで来るかぁ?とビックリだ。
おそらく状況からすると我が家のネズミを獲りにここまで
来たのであろうが、ネズミにいっぱい食わされたイタチ君だと想像する。
キノコは飛びついた時にホイホイのべったりした接着剤で毛がベトベトになり、タケさんにハサミで毛を切られた。
というお話し、ウサギの次はイタチということでこの季節
確かに動物も植物も活動が活発のようだ。

*先日さばいた野ウサギ、友人が集まった日にシチューに
 した、全員野ウサギ初体験であったが評判は上々、鶏肉の
 ようなサッパリしたお肉であった、ハナ/キノコまた捕ま えてね…。



2013年3月3日日曜日

ついにゲットだぜ!


昨日のハナとキノコの散歩、ついに野ウサギをゲットした。
ほぼ毎日必ずといってもいいくらい山に入ると2匹は野ウサギを何処からか追い出して来る。
彼らのDNAがそうさせるのだろうが<野ウサギ>となると
ワンランク気の入り方が違う、体重15キロに充たない中型犬なので5キロくらいの獲物との相性がいいのだろう、自然は相手を用意しているんだと感じる。
いつもは通り過ぎる山へいきなり飛び込んだかと思うと5分も経たないくらいで、山の上近くの茂みで野ウサギとレースを始めた。

この時期は厚い枯れ葉が地面を覆っているので、足早に4本の足で駆け出せばガサガサと乾いた大きな音がたつ、ウサギと2匹同時に走れば12本の足が枯れ葉の絨毯を蹴散らして行く訳だ。
見れば「早い早い!」と逃げるウサギの走りに感心する…
30mくらい後を2匹が全力疾走で追いかけて行く、「あぁ
今日もトレーニングさせてもらいなさい」と僕は適当な岩を
見つけて本を開いた。
30分は山のあちこちをグルグルまわらせてもらい、結局は
まかれて疲れてあきらめることになるのだから…といつもの
結末を思い僕は待つしかない。
最近は少し暖かくなったので、やっと本を開く気分になり…
「どうぞ気のすむままに…」と森で読書の時間を頂けるようになった。
「しかし…今日のヤツは早い!」2度ほど野ウサギは僕の近くを横切って山に登り、また降りて来たがハナとキノコは全く違う所をまわらされている。
ウサギが通ってからを10分ぐらいしてからハァハァといいながらあらわれては、また後を追いかけて行く。
時速どのくらいで走っているのかわからないが、全力疾走でアップダウンの山の中を30分も走っていれば、10キロくらいは走っていると想像できる。スゴイもんだ。
しかし今日の追いかけっこの結末はキノコがついにウサギを
追い込み、さしもの野ウサギも遠目にみてバテていたのがわかる、思わず「そこそこ!そこだぁ〜っ!」と叫んでしまった。
ウサギが逃げ込んだ茂みからか細い鳴き声が聞こえ静かになった、「やったぁ〜」ついにあの野ウサギをしとめた。
キノコはくわえて戻ろうとしているが、どうも重くて手を焼いている様子、結局急斜面の崖を登り僕が引き出して来た。
息絶えている力の抜けた動物は重く5キロくらいが10キロくらいに感じる。
「さて、このウサギどうしようか?ここまで勝負してゲットした生き物、食べるしかない!」と腹を決め家に持ち帰った。
ウサギどころか魚もさばけない僕は途方にくれ、猟友会の
おじさんの所へ走り、さばき方を教わり「いざ!」である。
まずは腹を割き内蔵を出す、心臓、胃…まだ温かいはらわたに生きていた命を思う。
次に後ろ足の関節をひもでしばり、足を広げて木に吊るし
足から縦に切れ目を入れ、肛門から指を入れ広げるように
頭の方に向かって皮をめくる。
おじさんから聞いたとおり、ウサギの皮はそれほど力をかけなくても肉からはがれてくる。
あとは出刃包丁で骨から肉をはがす…しかし肉の付いている所はあの立派な後ろ足の腿と背中に少し、ハナとキノコの夕飯にたっぷり肉の付いてる骨がたくさんとれた。
僕が頂いた分は4人くらいが食べるシチューに丁度300g
くらいかな…。
こんどお客さんが来たら「野うさぎのシチュー」を作ろうと
冷凍庫にキープした。
こんな成り行きになる犬との散歩、ここで暮らしてなきゃ味わうことができない体験だ、しかし生き物のお腹を割いて
手を入れ、その温かかさに感じた生命の活動を思い…「殺生」とは<殺して生きる/生きるために殺す>という生存活動のリアリティを重く感じ「合掌〜与えられた命に感謝」だった。